明智光秀首塚 天正10(1582)年6月12日、『山崎合戦』。 羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、戦線から離脱し、 大亀谷から小栗栖に抜ける途中で、重傷を負い自刃。 介錯された頚を羽柴軍に渡してなるものかと明智茂朝は、 知恩院の周囲まで、光秀の頚を抱えて来たものの、 朝が訪れてしまい、やむなく、この地に、 埋葬したとされる。 また別説では、光秀の頚は、 粟田口で晒された後に、西小物座町に埋葬される。 その頚を、光秀の一族と称する明田氏が引き取って弔い、 江戸時代の明和8(1771)年になると、明田権右衛門によって この地に光秀の頚が改葬されたと 言われている。
◎持田ノ眼◎ 三条通にかかる白川橋から、 白川に沿って少し下がったところに位置する。 この明智光秀首塚の傍らには、小さな光秀祠があり、 中に光秀像が安置されている。 この祠は、元々、 梅宮大社を勧請した梅宮社と呼ばれていたもので、 尊勝院の鎮守社であった。 光秀首塚に参詣すると、 首から上の病気に霊験あらたかであると伝えられ、 儚くも夢の途中で武運つたなく敗れた光秀ではあるが、 今では善男善女の守護神として、 多くの人々から慕われている。