見性院 隠棲の地
見性院 隠棲の地
慶長10(1605)年、
夫の山内一豊が亡くなると、
土佐藩主には養子の忠義が就任。
一豊の正室である見性院は、
慶長11(1606)年、京都に出て、
隠棲し余生を過ごすこととなる。
そして元和3(1617)年12月4日、
この地で亡くなる。
京都市中京区丸太町通富小路西入桑原町。
◎持田ノ眼◎
山内一豊の死後、
養子の忠義が後継者となるが、
新しい時代を迎えた土佐に前藩主の妻がいては、
何事もやりにくいであろうと言うことから、
見性院は「夫婦の功名」で得た土佐を去り、
京都を隠棲の地とする。
この見性院の思いに、忠義は、
隠居料として1000石を拠出して、
応えている。
見性院は、ここで妙心寺へ出した養子の湘南と再会し、
かつての「母と子」の絆を温めて、
時を過ごしたと言われる。
見性院の心穏やかに過ごした隠棲地は、現在、
京都地方裁判所となっている。