祇園祭に巡行する鉾。
二十四孝「郭巨」に因む山。
後漢の人である郭巨の話で、郭巨は、貧しいために、老母や自分の子供との生活さえままならない暮らしぶりであった。そのため、母は恩深く再び得ることは望めないが、子供ならまた作ればいい、と子供を山に捨てに行く。そして、山に入ったところで、金が詰まった釜を掘り出し幸せに暮らした、と言う。
郭巨の話から「釜掘り山」と呼ばれていたが、明治4(1871)年に「郭巨山」と名を改めた。
【歴史】
天明8(1788)年、『天明の大火』で焼失。
寛政5(1793)年、復興する。
明治4(1871)年、「郭巨山」に改名。
明治23(1890)年、乳かくしを新調する。
昭和56(1981)年、御神体人形の衣装を復元新調する。
平成3(1991)年、後掛を新調する。
【御神体人形】
御神体人形は、郭巨と子供の像。
【日覆障子屋根】
日覆障子屋根は、寛政5年の復興時に付けられたと言う。また「金地彩色法相華文」の乳隠しも、この山のみが使用している。
【前掛】
前掛は、「秋草図」、「六人王」、「中国美人遊楽図」等を所有。
【胴掛】
胴掛は、「花の汀」と「春雪図」、「呉道子描龍図」と「陳平飼虎図」がある。
【見送】
見送は、「唐山水仙人図」(綴織)が使われていたが、現在では、上村松篁「都の春」(綴錦)が使われている。写真は、宵山に掛けられる「宵掛」と呼ばれるもの。
7月13日、鉾建て。
7月16日、宵山。
7月17日、巡行。
京都市下京区四条通新町西入ル郭巨山町。
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